これは以前、古いブログに書いた記事ですが、時節柄、ちょうどいいので、再録してみました。
太平洋の真ん中にミクロネシア連邦という国がある。607の島々からなる島嶼国家である。16世紀以降、スペインやドイツに植民地支配され、太平洋戦争時には日本の管理下にあった。戦後はアメリカの信託統治となり、1979年に、名目上、独立国家となった。
2002年の夏、ミクロネシアに住む友達を訪ねて、日本から友人と2人で遊びに行った。
現地に住む友達は、現地の高校で日本語を教えていた。連れの友人はロシアで、私は日本で日本語を教えているという日本語教師仲間。そして、現地友人の住処であるアパートにもうひとつ部屋を借りて、2週間滞在した。
スぺイン統治の名残り
かつてはレムリアの首都かと騒がれたこともある謎の巨石遺跡(ナンマドール)や、太平洋一と言われる美しい海を毎日楽しむという、絵にかいたようなサマーバケーション。
ナンマドール遺跡
こちらが先生。立ってるだけで分かる。さすが先生やね。
海にも観光にも飽きてきて、さあ、今度は何をしようとなった時、ちょっと面白いところがあるってことで、旧日本軍の戦跡ツアーをすることになった。太平洋海戦の主戦場だったこのあたりの島々には、旧日本軍の戦跡がいたるところにある。
で、行き先は、メインアイランドから水上タクシーで15分ほどの小島ランガルー島。
島に着くと、友達はまず、島の酋長のおじいさんのところに挨拶に行った。島の酋長は、ミクロネシアでは法律より力のある存在なのだ。
その酋長さんは、イメージしてた様子とはかなり違っていた。
びっくりするほど立派な体躯で、しかも、これまたビックリするほど優しい目をしたドイツ系ハーフの映画スターのようなおじいさん。笑
「今から戦跡ツアーやらしてもらいます!(←現地語ペラペラ、さすが語学教師!)」と友達が挨拶すると、おじいさんは、そんならこの子たちに案内してもらうといいと言って、中学生と小学生くらいの兄弟2人に懐中電灯を持たせて付けてくれた。
で、犬と現地ボーイ2人と日本人女子3人のツアーグループは、ヤシの木の森の中をずんずん歩いた。
島は熱帯性の樹木や雑草におおわれていたが、よく見ると、海沿いに日本軍のつくったコンクリートの舗装道路があった。なかば砂に埋もれてはいたが、現地人がつくったのではないことは 一目瞭然だ。その道ぞいに、朽ち果てた鉄の給水タンクや戦車のような重機類がうち捨てられ、放置され、ほしいままにつる草におおわれている。おお、これが戦跡か…
廃墟マニアな私も、これだけで十分満足していたが、ふと見ると、子どもたちはそんなものには目もくれず、さっさと歩き続ける。
どこまで行くのかな?と不思議に思っていたら、道からちょっとそれたところで、ごそごそ葉っぱをかき分け、なにやら地底への入り口のような狭い穴を掘り出した。
鉄格子の扉を開けると、するりと体を滑りこませ、我々にこっちへ来いと手招きする。ええっ、こんな狭い穴の中に入るんかい?? こわいやん…
しかしまあ、ここまで来て帰るのも何なので、続いて滑りこむと、中はあっと驚くほど広かった。
天井も床も綺麗にコンクリートで成形されたトンネルの中に我々はいた。
こりゃ基地?防空壕?
こんな太平洋のど真ん中の辺鄙な小島なのに、国道のトンネルにも見劣りしないほど細部まで綺麗に仕上げられている。
あまりの美しさ、丁寧さにびっくりして、口あんぐり。ジャパンテクノロジーの凄さを、改めて思い知った。
そんな驚きをよそに、子どもたちは得意げに、踊るような足取りで色んな部屋を通り過ぎ、なおもずんずん奥へ進む。
そうして、一番奥のスペースに辿り着くと、入口からの光も届かぬ真っ暗闇の地底世界。懐中電灯の意味を初めて了解した。
不気味な暗闇の中で、一人が「ここで記念写真撮ろう」と言いだした。(誰や!?あ、あたし…)
記念撮影にはいるのを断固拒否した友人をカメラ担当にして、我々は子どもたちと一列に並んだ。
「左の人、もうちょっと寄って。はいらんよ」などとカメラ担当が日本語で言うので、あんた、日本語で言ってもこの子ら分からんよ…と心の中でつっこみ入れながら、撮影終了。
終わると、カメラ担当者は、なぜか一目散に来た道を駆け戻り入口の開口部に突進する。
みんなが穴から出ると、子どもたちはまた丁寧に格子の扉を閉めた。
暗闇の中から出ると、さすがに南洋の太陽は眩しく、さっきまでのことが夢のように思われた。
眩しい光の中を船着き場までぶらぶら歩いていると、カメラ担当の友人が妙なことを言いだした。
「写真撮った時、うちら何人やった?」
「え、何人って、あなたカメラ持ってたし、並んでたのは私とMさんと子ども2人だから4人でしょ」
「そうだよねえ…4人よねえ…… でも、5人いたんだ…」
「はあ??」
妙なことを言いだした本人は、だが、その夜も平和に爆睡していた。
しかし、私は大変だった。
明らかに、連れて来てしまった。
ていうか、ついてきてしまっていたのだ・・・
メインは一人、記念撮影に並んだとおぼしき若い日本人兵士。
しかし、その夜は彼だけじゃない、仲間みんな引き連れて、わいわいうちらの部屋にやってきていた。
我々が借りていた部屋はけっこう広くて、10畳くらいの寝室とは別に、広々としたLDKがあった。で、姿なき人々は、リビングのほうでわいわいやっているのが私には分かった。時々、寝室にまで入ってきて、じぃーっと顔を覗き込むのも感じた。ああ、連れて来ちゃったよ…どうしよ…と眠れぬ恐怖の一夜を過ごした私。
旅行中は日付や曜日なんか全然頭にないが、気づけばその日は8月13日。
あちゃ~!と思いつつ、こうなったら供養するっきゃないと観念して、14日からは食事も一人分多く作ってお供えし、線香代わりにインセンスを焚いてお経をあげた。
一日、供養に努めたが、15日の朝はいよいよ帰国の日。
送り火まではできんけど、どうか成仏してくださいと、前夜、しっかりお祈りした。(福岡では15日に送り火を焚くので)
明けて15日、幽霊さんの送り火がかなり気がかりだったが、帰国便を延ばすわけにはいかない。後ろ髪を引かれる思いで空港に向かった。が、空港に着いて搭乗手続きしようとしたら、空港全体が何か変。
え、なに? 飛行機飛ばないって? そんなアホな!こんなに天気いいのに。
どうも機体の故障とかで、来る予定の飛行機が来ないらしい。ええっ??(驚)
結局、航空会社の世話してくれたホテルに一泊することになった。
友人は現地の友達と映画を見に行ったが、私は供養があるので、その日は夜までお経三昧(^_^;)
ロウソクとインセンス買い足して目いっぱい焚き、しっかり送り火までやりきった。気づけば15日は終戦記念日。嗚呼・・・
翌日は何もなかったようにすいすい搭乗でき、しかもグアムではヒルトンにトランジット泊(食事まですべて航空会社持ち)。
ホテルの窓からプールの賑わいを眺めていると、南の島の出来事がすべて夢の中のことのように思えた。あれは一体なんだったのだろうか…
さて、帰国してからの一番の関心は、フィルムカメラのあの写真に何が写っていたかってこと。さて、どうだったでしょう… 南無南無
あまりにホラーすぎて、当時、あわてて写真を廃棄したようで、今見ると、旅の後半の写真のネガがなく、それゆえデジタル記録にも残せていませんでした。これはこれで残念でなりません。
ネットから拝借した最近のミクロネシア。日本から近く、太平洋で一番美しい海でシュノーケリング楽しいですよ。鎖国が解かれたら是非。
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