臼井甕男(ウィキペディアより) |
師については、欧米の書物などでは、様々な「伝説」が紹介されていますが、菩提寺である西方寺(東京)の「臼井先生功徳之碑」が、今のところ、最も正確な資料と考えられているので、少々長くはありますが、ご紹介しておきます。
この碑文は師の逝去(1926年)翌年に門下生によって建立されたそうです。
碑文の現代語訳。(Webサイト「レイキの現在」より引用転載)
修養と練磨によって自然に身についたものを「徳」といい、指導と救済の方法を広めて実践することを「功」という。功が多く徳の大きい人こそ、初めて偉大な開祖ということができる。古来から賢人や哲人、英才などで、新たな学問を興したり宗派を開いた人は、皆そのような人であった。臼井先生も、またその一人ということができよう。
先生は新しく「宇宙の霊気に基づいて心身を改善する方法」を始められた。四方から噂を聞いて療法を学びたいという人や治療を受けたいと願う人たちが、一斉に集まってきた。まことに盛んなことであった。
先生は通称を甕男、号を暁帆といい、岐阜県山県郡谷合村の出身で千葉常胤(平安末期から鎌倉初期に活躍した武将)を祖先とする。父の実名は胤氏で通称は宇左衛門、母は河合氏から嫁いでいる。先生は慶応元年八月十五白に誕生。幼時から苦学しながら努力して勉学に励み、その実力は友人たちを遥かに超えていた。
成長の後、欧米に渡航し中国に遊学した。
しかし、出世という点では実力通りにいかす、不運でしばしば生活に困窮したが少しもひるまず、ますます鍛練に励んだ。
ある日、鞍馬山に登って食を断ち苦行を開始したが、二十一日目に至って突然、一大霊気を頭上に感じ、悟りが開けると同時に霊気療法を得た。これを自分の身体で試し、家族にも験したところ、即座に効果が現れた。先生は「この力を家族で独占するよりも、広く世の中の人に授けて喜びを共有するほうがよい」といわれ、大正十一年四月、東京青山原宿に住居を移され、学会を設立して霊気療法を公開伝授され、治療も行われた。遠近から集まって、指導や治療を求める人の列が戸外にあふれた。
大正十二年九月、関東大震炎による火災が起こり、けが人や病人が至るところで苦しんでいた。先生はこれを深く憂慮され、毎日市中を回って治療された。これで救われた人の数はどれほどであったか、とても教えることはできない。この緊急事態に際し、苦しむ人々に愛の手を差し伸べられた先生の救済活動は、おおむねこのような状況であった。
その後、道場が狭くなったため、十四年二月、市外の中野に新築移転した。先生の名声はいよいよ高まり、全国各地から招かれることが多くなった。その求めに応じて呉にいき、広島へ向かい、佐賀に入り、福山に至る。この旅先の宿で、はからずも病にかかり、享年六十二歳をもって逝去された。
配偶者は鈴木氏から嫁いでおり、名前は貞子、一男二女がある。
男の子を不二といい、臼井家を継いでいる。
先生の生来の性格は温厚で慎み深く、うわべを飾らず、身体は大きくがっしりとして、常ににこやかに微笑を含んでいた。しかし、事に当たるときは明確な意志をもって、しかもよく忍耐し、極めて用意周到であった。非常に多才で、読書を好み、歴史や伝記、医学書、仏教やキりスト教典、心理学、神仙の術、呪術、易学、人相学に至るまで、すべて熟知されていた。思うに、先生の学芸経歴が修養練磨の基礎となり、修養練磨が霊気療法開眼の鍵となつたことは、だれがみても明らかである。
顧みれば、霊気療法の主眼とするところは、単に病気を治療するだけでなく、天与の霊能によって心を正しくし身体を健康にして、人生の幸福を味わい楽しむところにある。ゆえに人に教えるに当たっては、ます明治天皇の遺訓を体得させ、朝夕五戒を唱えて心に念じさせている。
五戒とは、一に今日怒るなかれ、二に憂うるなかれ、三に感謝せよ、四に業を励め、五に人に親切なれ。
これは実に、修養のための大切な教訓であり、古来の聖賢が自らを戒めたものと同じである。先生はこれをもって「招福の秘法――万病の霊薬」とされ、教えの目的を明確に示されている。しかも指導方法は、できる限りわかりやすいことを主眼とされ、少しも難解なところはない。静座合掌して朝夕念じ唱えることに、純粋かつ健全な心が養われ、それを日常生活に活用させるところに神髄がある。これが霊気療法の、だれにでも普及しやすい理由である。
最近は世相の移り変わりが激しく、人々の思想の変動が少なくない。
幸いに、この霊気療法を普及させることができれば、世人の道徳心の乱れを救うために、少なからず助けとなるにちがいない。決して、長期疾患や持病悪癖を治療する利益だけではない。
先生の教えを受けた門下生は、すでに二千余人に達する。
その内、高弟で都下にいる者は道場に集まって遺業を継ぎ、地方にある者もまた、それぞれ霊気療法の普及に努めている。先生は逝去されたが、霊気療法は氷く世に伝え、広めなければならない。ああ、先生が自ら感得され、それを惜し気もなく人々に与えられたということは、なんという偉大なことであろうか。
このたび、門下の諸土が集まって相談した結果、石碑を菩提寺の墓に建ててその功徳を明らかにし、後世に伝えることとなったので、碑文を私に委嘱された。私は先生の偉大な功績に深く感服し、さらに諸士が師弟の緑を大切にする心に感じ入り、あえて辞退せずにその概略を記述した。
これにより、後世の人が感嘆して仰ぎみることを忘れることのないよう、心から切望するものである。
昭和二年二月
従三位勲三等文学博士 岡田 正之 撰
海軍少将従四位動三等功四級 牛田従三郎 書
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